| ■ 私の歩んだ老人医療 その2
大学の医局から飛び出て、はじめて勤務した老人病院での仕事にも少しずつ慣れてきたころに、その病院の倒産騒ぎが持ち上がりました。ある日の朝刊に「**病院倒産」との見出しがあります。(この記事は今でも保存しています)なんとなく経営者と病院サイドでトラブルがあったのは感じていましたが、まさか倒産騒ぎになるとは夢にも思っていませんでした。それから、怪しげな人物を見かけたり、警察官が院内で警備していたり、ごたごたの時期がありました。そんなおり、出入り業者のかたから声がかかり他の病院をいくつか紹介されました。実際に面接に行ったりしているうちに、ある札幌市内の老人病院を紹介され、給料も良かったのでそこに移ることに決めました。はじめの病院を是が非でも辞めようということではなかったのですが、次の病院には複数の医師が勤務していることやもちろん給与にも魅力があり、結局半年間の勤務になりました。ちなみに、倒産騒ぎの病院はその後も順調に経営を続け、今では地域の老人医療の役目を立派に果たしています。
このとき、医局には報告だけで済ませました。いわゆる医局人事からこのときにお別れしてしまったわけですが、いま思うとなんと勝手でわがままな医局員だったと、冷や汗ものです。当時は、医局の暗黙の掟も良く知らず、自分の気持ちひとつで転職してしまったのですから。こんな転職は一般社会では当たり前かもしれませんが、当時の医局の世界では、破門相当の行為です。しかし、私の医局は実に寛大でそんな私でも毎年の忘年会の招待はしてくれていましたし、同門会費もしっかり収めていました。
その後、一年経っても大学院に復学しない私に対しさすがの教授も愛想をつかしたようで、忘年会の席でもあまり口をきいてくれなくなり、同門の先生方もよそよそしい態度になってきました。それにはもうひとつ訳があります。それは当時、老人医療をやっている医者は一段低いレベルの医師と考えられていて、事実そのようなこともあったのですが、そんなところに自分が医局出身者として身をおいていることへの反感があったように思えます。
はじめの病院を辞めるにあたっても、院長から遺留されました。自分は生意気に、いろいろ理由を述べました。院長は一言「世の中そんなに甘いものではないよ」。自分のこれからの医者人生でこの言葉を何回も実感することになろうとは、そのときはわかりませんでした。この院長には、いろいろな意味で感謝しています。まず、老人医療の見習のような医者に、自由にやらせてくれたこと。経営の厳しさを肌で感じさせてくれたこと。コストをあげる手段を少し教えてくれたことなどです。
昭和62年の12月から私は200床を越える老人病院に勤務しはじめました。
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