| ■ 私の歩んだ老人医療 その17
まず、事務長が名乗りを上げてくれました。彼は製薬会社の営業(MR)をして旭川に勤務していましたが、会社合併を機に退職して事務長にチャレンジしたいとの申し入れをしてくれました。営業職として食事などをともにしたことがある人でしたし、早速お願いしました。総婦長は以前ちょっとした機会に挨拶を交わしたことのある方に声をかけてみました。その方は急性期病院の病棟婦長を経験され、当時は老人病院の病棟婦長として活躍されていました。私からの突然の電話で戸惑った様子でしたが、とりあえず食事をしながら話を聞いてくれるということで、早速札幌で会いました。私は自分の老人医療への思いを率直に話ました。そのうち、その方も高い理想を持って老人医療に取り組んでいることを話しはじめられ、なんとなく意気投合し始めました。私はほぼ初対面にもかかわらず、感触がよかったので、内心ほっとしました。ほどなく、了解の返事をいただき、急展開でトップの人事が決まりました。いまから思うと、なんと唐突な申し入れをしたのかと思い赤面の至りですが、こちらも必死でしたのでその思いが伝わってくれたのかとも思います。 私は平成8年の5月ぐらいまで、旭川の病院長の仕事がありましたので、製薬会社を先に退職した事務長と総婦長のふたりでとりあえず開設準備室を始めることになりました。 4月に開設準備室がスタート。事務長、総婦長、管理栄養士、それに事務のアルバイトの女性、そして私で開始しました。事務所は賃貸物件のもと事務室を使いました。机なども最低限のものではじめたのを憶えています。 銀行融資については、準備室が始まっても不確定な要素がありました。そのため、内部の改装に着手できない状態のまま、4月が過ぎました。融資の問題点は、まず担保がないこと、また私にとっては全くの新規事業であること。さらに、連帯保証などのあてが全くなかったことなどでしょうか。開院して、また移転してからよく聞かれることですが、私にはいわゆるスポンサーはありません。大学の同門会でも、スポンサーは誰なんだ?と先輩医師に聞かれましたが、誰もいないわけですから、そう答えるとみな不思議な顔をしていました。私はそこで、こんな事業をするには何らかの後援者がいるものなのだと、世間の常識を学んだ気持ちでした。私にとって後援者は、銀行でありそれまでいろいろなお手伝いをしてくれた関係者でありました。さらに今は、患者様やそのご家族が私の後援者だと思っております。 銀行の融資もさまざまな経緯がありましが、5月のはじめには、ついに改築工事が本格的に始まりました。 これからの経緯は南小樽病院の歴史になります。「私の歩んだ老人医療」は今回をもちましてひとまず終了させていただきます。長い間、冗長な文章にお付き合いいただきまして、感謝の念にたえません。 今後このコラムは、南小樽病院の歴史や日々の雑感などを中心に書き続けます。これからも、よろしくお願いします。
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