■ 私の歩んだ老人医療 その16

 平成4年に始まった私の病院設立の動きは、2年経っても具体的なことになってきません。その理由は、賃貸するはずの建物で運営している専門病院の新築移転が決まらなかったためです。ある日、オーナーと建設会社、さらにプランニング会社の担当者が一同に集まり経過の報告会がありました。その中で、新築移転の見通しが立たないこと、そのために私の病院計画を実現できないことがオーナーから告げられました。早く言えば、あきらめてほしいということです。私は、旭川の病院の院長を任せるからそのままいてほしい旨も告げられ、言葉に詰まりました。はじめから、その病院に長期間勤務する気は持っていません。付き添いの病院からケアミックスに変更し、収入も十分上げられる体制にしたところで、私の役割は終わっていたと思っていました。自分の目指す老人医療を実現することが望みでしたし、たくさんの夢を抱いていました。しばらく考えて、このまま勤務することは出来ないと思い、他の可能性を考え始めました。いくつかの病院の院長職を紹介されたり、見学もしました。しかし、雇われでいる限り自分の理想を追求できないことがしみじみ分かりました。
平成7年になって、賃貸物件の病院の移転新築が決まりました。しかしすでに、私はそこでの開業をあきらめていましたから、ある町立診療所の院長になる気でいました。それは不動産を町が抱え、運営を私に任せる、いわゆる“委託診療”と呼ばれる仕組みのものでした。病院への夢はありましたが、現実問題として困難が多いという気持ちになってきていた私は、都会から離れ町医者として生きていくのもひとつの道かと思い、話を進めていました。町長ともお会いしお互い意気投合して、かなりの部分で具体的な話が煮詰まっていました。町議会にも私の名前が出て、新聞記事にもなりました。しかし、最後の条件の交渉で首をかしげるようなことを、町側は言い出しました。それをはじめから言われたら、私は交渉もしなかったと思います。しかし、話は最終段階まで進んでいました。ここで断れば多くの方の迷惑になると思い、自分なりに悩みました。しかし、一度芽生えた不信感はなかなか解消できず、結局その話を断りました。町は大慌てで私に再度の条件提示を含め、翻意してくれるよう求めました。私は、町に混乱を招きたくなかったため、手を尽くして代わりの医師を見つけました。町に謝罪文を提出し、なんとか話を収めました。今でも、当時の町長さんに対しては申し訳なく思っています。
 そんな中に、小樽での開業の可能性が再び見えてきたのです。私は、これを逃すとチャンスはもう巡って来ないと思い、全力で開業に向け動き始めました。平成4年頃に声をかけていたスタッフは、すでに他の職場で活躍しています。時間が開きすぎていました。平成8年を迎えても、事務長も総婦長も決まっていません。この二つのポジションが埋まらないことには、どこから手をつけてよいかわかりません。かろうじて、管理栄養士のいい人材は確保できました。かつて一緒に働いていたよしみで開業に賛成してくれました。

2004/07/13(Tue) 08:51